無尽意菩薩,仏に白して言さく,世尊我れ今当に観世音菩薩を供養すべし。即ち頸の衆(もろもろ)の宝珠の瓔珞の価値(あたい)百千両金なるを解きて,以てこれを与え是の言(ことば)を作(な)さく,仁者この法施の珍宝の瓔珞を受けたまえ。時に観世音菩薩,あえてこれを受けたまわず。
この文句は,観音さんがそこに菩薩のお姿をしておられるものとしての言葉です。無尽意菩薩が仏さんの説かれた観音様の功徳に感じて,いま私はお観音様を供養しますといって,自分の頸にかけていた諸々の宝珠(宝石類)でできている瓔珞(首かざり)の極めて高価なのを解いて,これをお観音様捧げ,「仁者(尊者)よ,どうかこの法施の瓔珞を受け給え」といいましたが,お観音様は,それをお受けにならなかった。
達磨大師が仏教を広めるため支那きて武帝にお会いした。梁の武帝は,仏教に熱心なお方であったので,それを自慢して「わしはこれまで沢山の僧尼を供養し,寺も建てたが,この功徳はどんなものでしょう」といわれました。大師は,一言にして「無功徳」と答えました。功徳を望みながら善事を行っても功徳にならないのですね。
人前で吹聴しながら施しをしたものは,吹聴した事によって,既に施しの報酬を受けたのだから,施しの善事は帳消しになってしまったのです。
施しをするときは,世間にわからないようにすると,仏様や神様が陰でみておられて,善い報いをくださるのです。 陰徳を積みましょう。