『ウィキペディア(Wikipedia)』
中国の天台宗
中国の天台宗は、隋の智(ちぎ)(538年−597年、天台智者大師)を第三祖とする大乗仏教の宗派である。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年−577年)であり、慧思の弟子が智である。
智は、鳩摩羅什訳の法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、「鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論を重要視していたことを考えると、天台宗設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智の著作を記録し編 集したのが、第四祖章安灌頂(561年−632年)である。灌頂の弟子に智威(?−680年)があり、その弟子に慧威(634年−713年)が出て、その後に左渓玄朗(673年−754年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年−782年)が現れ、三 大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
日本の天台宗
法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合が有るために用いない場合がある。
今現在の日本の天台宗は、本来の天台宗とは大きく異なり、どちらかといえば真言宗に近い。[要出典] 初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日し、次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767−822)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、その教えを受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中 国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺を開き、後年多くの優れた僧侶を輩出した。彼の没後は、法華経を中心としながらも、朝題目・夕念仏という一般向けの行法を広めたり、天台密教(台密)などの加持も行い、さらに天台本覚思想を確立して総合的宗派となる事によって基盤を固めた。延暦寺は戒壇を備えた数少ない寺院であり、長く日本の仏教教育の中心の1つであったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出する事となる。
主要寺院
|